新書「昭和の代議士」

昭和の代議士 (文春新書)

昭和の代議士 (文春新書)

この本は、原敬内閣(1918)から佐藤栄作内閣誕生(1965)までの代議士たちの動きを述べた本である。複雑な人間関係を辿りつつ彼らがどう行動したのかを丁寧に書いている。

雑考
「政党というのものは対立に意義がある。国民に付いて意見を異にする場合に、政治の責任をお互いに追及する所に、摩擦と相克の間に真理の発見と妥当なる政策の産み出しがあるのである。」腹切り問答で知られる浜田国松代議士が腹切り問答と同じ演説の中で一国一党論を批判し述べた言葉である。時は2・26事件の後、軍部の影響力が増していた昭和12年 (1937) 1月21日である。戦争へと向かうあの時代でもちゃんと複数政党制の意義、つまりは政党政治の価値を訴えていた政治家はいたのである。浜田を含めて尾崎行雄、川崎克、斎藤隆夫、植原悦二郎など議会政治や民主主義のシステムに親和的な政治家たちがあの時代にも存在したのである。

太平洋戦争、敗北、占領改革を経て日本は民主主義の国になったと学校では教えられる。戦争に至る過程において我々の3、4世代前の国民が選んだ政治家たち(女性には投票権がなかったが男子の普選は実現していたわけで、民主的手続きを経て選ばれた政治アクター)があの戦争を協力推進したり反対したり、軍部など非民主的機関にのっかたり抵抗したりした多様な姿というものはあまり教えられていない*1

親軍的だった代議士も民主主義の価値を認め守ろうとしていた代議士も、少なからず戦後再び衆議院議員に当選し重要なポストにつき日本の舵取りを担っていたこともあまり知られない。例えば田中角栄を政界に導いた大麻唯男は戦前東条内閣の大臣を務めるなどおよそ親軍的な代議士でありながら、戦後になっても代議士に当選し鳩山一郎内閣で大臣を務めたのである。絆創膏大臣として有名になってしまった赤城徳彦の祖父赤城宗徳は岸内閣の時に防衛庁長官だった。宗徳は、安保デモが激化するなか岸首相が自衛隊の治安出動を求めても、自衛隊を国民の敵にしないために治安出動に反対した人物であるが、戦前には徹底抗戦派の代議士であった。先に挙げた川崎克は公職追放されてしまい戦後は息子秀二が代議士になった。小泉内閣厚生労働大臣を務め谷垣禎一側近の川崎二郎は秀二の息子である。

つまりは多様な行動を取った戦前の政治家の影響は、戦後直後もあったし、次の総理大臣を含め彼らの2世3世議員の存在を考えると現在に至るまで残っている。だから、日本政治を戦前と戦後で断絶したものとして捉えるのは適切でない。


余談だが、尾崎行雄はもちろんのことだが、浜田国松も川崎克も我が三重県選出の代議士であった。

*1:斉藤隆夫の演説など、反軍的な動きは教科書にあった気がする