「アクセス安全保障論」という本

アクセス 安全保障論

アクセス 安全保障論

 アクセスシリーズの一つで、あとがきにもあるように政策記述ではなく、政治学の視点から安全保障を分析した本。合理的行為、民主的平和、テロリズム、地域的安全保障etcを若手中心の執筆人が書いている。最近の研究動向にも触れつつ、これまでの研究業績を執筆者がまとめている。

 以下、エッセイ。
第4章で政軍関係が述べられている。日本の政軍関係(Self Defense Forceは軍という仮定で)を考えるとき、思い出されるのはシビリアンコンロール(文民統制)の問題だ。よく指摘されるように、日本では文民が非軍人と解され、政治家ではなく官僚による文官統制がシビリアンコントロールだと理解される傾向があった。理由は、旧日本軍出身者の力を旧内務省官僚が排除しようとした等いろいろ考えられるらしい。
最近は政治家による文民統制が強調されるようになったと思う。民主政の国として、直接には政治家が、間接には国民が、軍をコントロールするのは必要不可欠であろう。防衛省の文官は、国民の側から見ればコントロールの対象であって、統制主体ではないのだから、政治家のコントロール下に置かれるのは望ましい傾向だろう。
だが、もっと重要なのはコントロールの内容だろう。政治家の意に反す政策を実行しようとしたときに止めさせるのもコントロールであるし(拒否権を持つということ)、政治家の指示に従わせるのもコントロールである。前者は弱いコントロールだと思うが、私はこのレベルを求めたいと思う。官僚(制服組含む)というのは専門知識が豊富であり、官僚の政策を止めるには彼らの納得できる論理を展開する必要があろう。その際には、多少の知識も要るだろう(後者ならもっと要るだろう)。戦後日本の政治と行政の関係の研究で、知識を獲得した族議員(今では悪口になってしまったが)の出現で政治>行政の政治優位に至ったという指摘があるように、知識は大切である。だが、安全保障政策への知識や関わりというのは、現状では票獲得に直接的に結びつきにくいとされる以上、政治家は積極的でない傾向が指摘できるし、その態度はある意味合理的でさえある。だから、より弱いコントロールをまず求めたい。