「気骨の判決ー東条英機と闘った裁判官」という新書

気骨の判決―東條英機と闘った裁判官 (新潮新書)

気骨の判決―東條英機と闘った裁判官 (新潮新書)

翼賛選挙。先の戦争(太平洋戦争)中に日本でたった一度だけ行われた衆院選を指して使われる言葉だ。任期が延長されていた衆院であるが昭和17年4月30日にその総選挙は執行された。時の総理大臣は東条英機大将である。政友会・民政党など戦前日本の主だった政党が消滅していた状態で、内閣は「翼賛政治体制協議会(翼協)」という組織を作り、定員と同じ466名の候補者を推薦した。今で言えば、自民党民主党などの政党が消え、麻生内閣が政府として時局に相応しい候補者を全選挙区に立てるようなものであり、有権者の選択は内閣「推薦候補」か「非推薦候補」という極めて狭い範囲でしか行えなかったのである。そういう民主的とは到底言えない構造で、非推薦候補は自治体・警察などから選挙活動を妨害されたという。結果的に466名中381名の約82%*1の推薦候補が当選するわけだが、落選した非推薦候補の中には翼賛選挙の無効を大審院(当時の最高裁)に訴えた人たちがいた。

5件の訴訟が提起され、そのうちの一つである鹿児島2区の審理を担当したのが、吉田久が裁判長を務める第3民事部であった。吉田らは現地に行くなどして丁寧な審理を行なって、選挙無効判決をにおわせた。しかし、司法内外からの圧力が強まる中、他の翼賛選挙無効訴訟で原告敗訴の判決が出された。いずれも吉田久の思いに反する動きであり、判決当日「もう、帰ってこられないかもしれない*2」と漏らしていたらしい。

吉田久は「選挙ハ之ヲ無効トス」という2万字の判決を下し、「気骨」を示した。


ある潮流が時代を支配する時、その流れに掉さすのは容易いが、自らの信ずるところを維持し「change」しない事は難しい。吉田久は戦前日本に存在した時局に囚われなかった裁判官ということであろう。もちろん本人は法律に従っただけで、むやみな正義感を求められるのは心外かもしれない。だが、吉田久が示した気骨にある種の快さを感じた。

*1:関係ないが、戦後オール与党体制化の地方議会だとなんと議員100パーセントが選挙与党だということもあった。おそろしや、おそろしや。

*2:p152