「2009年、なぜ政権交代だったのか」という本

鳩山民主党政権が誕生した今でも、郵政民営化の見直し・行き過ぎた新自由主義の是正など、小泉純一郎政権の「遺産」が残っている。有権者は、自らが熱狂的に声援を送った政権に対し、まるでそのことがなかったかのように、小泉路線からの脱却を標榜しているように見えた鳩山政権を選んだのだ。
何も彼らを責めているのでない。どこかの幹事長みたく政治家が政策ポジションを変えるように有権者の政策選好も変わるのだから。

小泉純一郎という稀代のカリスマ政治家のポピュリズム的手腕に、有権者が踊らされていたという見方もあろう。「バカヤロウ解散」ではなく、「バカヤロウの解散」とまで言われてしまう麻生太郎のセンスのなさにあるいは小泉以後の自民党政権の埃っぽい空気と小泉政権が持っていた清々しい空気との差に嫌気が差したのかもしれない。ともかく小泉マジックが解けて、有権者は戦後この国の舵取りを担ってきた自民党に愛想を尽かした。

そんなことを思っていて、この度の政権交代選挙を考えるに役立つ

2009年、なぜ政権交代だったのか―読売・早稲田の共同調査で読みとく日本政治の転換

2009年、なぜ政権交代だったのか―読売・早稲田の共同調査で読みとく日本政治の転換

を読了。
政権交代後、約2ヶ月でこのような本が出たことに驚きいた。
早稲田と読売の共同調査研究の成果を田中愛冶・河野勝の早稲田の有名教授や若手研究者あるいは読売の記者らが執筆した本。

字が大きく分量的には少なめな感があったが、内容はとてもおもしろく、2009年総選挙の意味を考えたい人には是非おススメしたい。

「首相の蹉跌」という本

首相の蹉跌―ポスト小泉 権力の黄昏

首相の蹉跌―ポスト小泉 権力の黄昏

を読んでいたら、大塚和子さんという元首相秘書の話が出てきた。
詳しくはここで読んで頂きたい。
こういう方にオーラルヒストリーとか回想録を出して頂きたいが、プロフェッショナルな秘書であったわけで、まあ無理ですかね。

「政治主導」っていう言葉への違和感

政治主導を確立することで、真の民主主義を回復する。」と民主党マニフェストに書いてあります。この「政治主導」という目標を達成する手段として、大臣や政務官などとして政府に100名以上の政治家を入れて、政策を立案・決定するんだという方法が掲げられています。

つまり民主党の「政治主導」ってのは、首相を中心とした内閣が政策に力を持つ「首相主導」「内閣主導」を想定していると考えられます。

日本の政治学では、政党と官僚のどっちが優位?って論争*1がありますが、どちらかという政党優位説の方が説明力があるのではと思っている私としては、首相とか内閣とかいう言葉ではなく、何故あえて「政治」主導という言葉なのか思うわけです。

従来の自民党政権では各省庁に対応している政調会の部会や調査会という党内組織がボトムアップ式な政策形成をやってきた。つまりミクロな部分からの積み上げが「予算」になって国家全体としては妥当性を欠く政策がなされてきたという側面がある。
あるいは、族議員と呼ばれるある政策領域で影響力を持つ政治家が内閣の政策に「拒否権」を持つ存在として影響力を持ってきたために、内閣が決めたあるいは決めようとした国全体を見て有益な政策が実行されなかったり歪められたりした。

官僚も各省の利益を守るために部会や族議員を利用したり利用されたりして、内閣以外の自民党政治家と関係を築いてきた。でも、私は国会という唯一の決定機関を握る政治家に官僚は究極的には従わざるを得ないのだから、その自律性はあくまで政治家の手の内だったと考える。つまり自民党政権でも内閣以外の政治家も力を持つ「政治主導」は実行できていたのである。

だから、民主党が「政治主導」って言葉を使うのはセンスがないと思う。自民党のように閣外の政治家が政策を歪めて全体益を損なわすシステムを改め、イギリスのように党内部ではなく内閣に絶対的な力を持たせるなら「首相主導」「内閣主導」って言葉の方が良いはずだ。

でも、「首相主導」「内閣主導」ってのは民主党の専売特許でない。小選挙区制導入や橋本龍太郎の省庁再編・経済財政諮問会議創設で首相への権力集中の下支えができ、小泉純一郎という孤高の天才が「郵政解散」「聖域なき構造改革」で「首相主導」の実績を残したように自民党もこれらの方向に向かっていたのである。民主党の主張はこの流れに沿うものであって、むしろあの小泉政権でもやかましかった自民党の族のセンセイ方を完全に黙らせて「首相主導」体制を完成させる最終地点なのかもしれない。

*1:官僚優位:辻清明、政党優位:村松岐夫が代表的な論者。両者が完全に対立的な概念ではないと思う

ブクログ

この読書日記が当初の目的「読んだ本の記録」を全然達成できていないので、とりあえず何かコメント書くか書かないかに関わらずこっちで読書記録をつけることにしました。
10月に入ってか読んだ本で記憶にあるのを本棚に収納。現実と違って整理されていて良いですな・・。

新書「世界の日本人ジョーク集」

世界の日本人ジョーク集 (中公新書ラクレ)

世界の日本人ジョーク集 (中公新書ラクレ)

久しぶりに読むとやはりおもしろかった。

そこで一つ政治冗句を作ってみた。

Q「最高の政治家とは?」(与党編)
A「外務大臣のように臨機応変に対応でき、国土交通大臣のように地元の声を聞き、厚生労働大臣のように多分野に精通し、法務大臣のように職務を全うし、総務大臣のようにテレビばかり出ず、副総理のようにすぐイライラせず、金融担当大臣のように独走せず、官房長官のように華やかさがあり、幹事長のようにお金にクリーンで、総理大臣のように庶民の暮らしが分かる地球人」

・・・。

神戸市長選挙2

ようやく告示された神戸市長選挙。予想通り、共産党公認の松田隆彦氏(50)、民主の単独推薦を受け3選目を目指す矢田立郎氏(69)、ウェブ制作会社顧問の樫野孝人氏(46)の3名の立候補でした。
県議を立てるみたいな話はあったようだが、やはり自民党は候補者を立てられずじまい。

思い起こすのは宮崎辰雄市長の2選目(1973年)の選挙です。自民党はその4年前の選挙で社会党民社党とともに宮崎氏を推薦していた。しかし、宮崎氏は民社党公明党社会党が推薦を決めた段階で「大企業本位の自民党政府に抵抗し、反独占反自民で戦う」「社会党の方針に従う」と述べ、「革新」色を明らかにした。さらに、共産党も革新の「共闘バス」に乗り遅れまいと推薦に踏み切った。つまり、宮崎氏は自民党を捨て、革新4党に乗り換えたのである。
この宮崎氏の変心に自民党は衝撃を受け、砂田重民前代議士を押し出すこととなった。自民党は、当時総理大臣であった田中角栄が砂田氏応援のために3度も来神するなど異例の応援態勢であったが 、約4万票差で、結局宮崎氏が当選したのである。

自民党が現職市長に裏切られるという構図は一緒ですが、今回はなんと言っても政権交代の影響が強かったと考えられます。しかし、36年前には裏切られたら前代議士を担ぎ出してくるエネルギーが自民党にはあったわけで、今回の独自の候補者を立てられずというのは非政権党自民党の力の低下を物語っているようです。


話は変わりますが、公開討論会の開催を期待して新聞をチェックしてたんですが結局開催されず(正確には開催を確認できなかったのですが)。だいたい首長選の討論会というとJCがやっているイメージですが、神戸JCはやる気がなかったんですかね?
それとも、公開討論会をやって直接比較されると不利になると思った候補者がいらしたんですかね?
いずれにせよ、神戸市民の選択に注目であります。

「自民崩壊の300日」という本

自民崩壊の300日

自民崩壊の300日

「麻生政権が誕生した2008年9月から、約1年にわたる読売新聞の政治記事を大幅に加筆修正した」本である。
事実関係の確認・把握に適していると思う。政権交代という一大画期のおかげで、それまでのことを忘れがちだ。小沢一郎幹事長はうだうだしつつも5月に代表を辞任したばかりだよななぁ、そして鳩山由紀夫代表は5月に今の代表職に復帰したばかりだったんだなぁと、(早くも?)やや回顧主義的感想を抱きつつ読了。

2大政党制(政党中心の選挙という条件付)には党首イメージが大事だなんて話をよく耳にしますが、あの5月の代表選では世論の支持が明らかに高かった岡田克也氏ではなく鳩山由紀夫氏を民主党は選んだにも関わらず、総選挙で勝ったんだなぁ。相手が酷過ぎたから鳩山さんでも良かったんだろうし、小沢さんとその取り巻きを繋ぎ止める便益が党首イメージから得られる便益よりも高かったんだろうな*1と思う。
(無党派層向けの)選挙の論理よりも党内の論理を優先したと言えるのか?それとも小沢一郎という組織型・どぶ板型選挙の強者をとりこむことで選挙の論理と党内の論理を融合させたのか?
結果からなら後者だが、鳩山さんもある程度の人気者だったのは確かです。

*1:ロボコップ」岡田では党内融和は難しいとの判断した?